🏠久々の帰宅(ご実家への外泊)🏠

 コロナが始まった2020年初頭から、入所施設とグループホーム利用者さんの帰宅(ご実家への外泊)が中止になりました。その後、第2~5波までコロナが続く中、再開のめどを立てられませんでした。  第5波が収束し、感染者数が減った後もすぐに再開という動きはとれませんでした。やはりスタッフにとっては2021年3月のクラスターの記憶が強く、あれをもう一度…と思うと、決断ができないという時期が続きました。  この2年の中で、数名の利用者さんの親御さんがお亡くなりになることがあり、コロナ禍において病院に行くこともかなわず、という状況がありました。利用者さんの幸せを支えることが、暮らしの場である入所施設・グループホームの最大の役割だと自分は思います。そうなのですが、「その場所を支えるスタッフが働き続けられる環境」を整えることもその役割を果たすための大きな要素であり、その2つが相反…とまでは行かずともバランスをとるのが大変難しい局面が続きました。  その悩みの中、先日から期間限定で帰宅を再開しました。またいつ感染者数が増えてくるかわからない中で、今の期間を逃してはならないという判断だと聞いています。  家でゆっくり過ごせて嬉しかった…というお話を聞けて、自分もとても嬉しくなりました。また、「自分は帰られへんねん。。。」という方もおられ、なかなかかける言葉も難しい・・・ということが今日ありました。それだけ、利用者さんにとってはご家族というのが大切でかけがえのない存在であることを、この2年間で教えて頂いたようにも思います。(小池)

🌹利用者さん、ご家族からのメッセージ🌹

 なにわの里には、「なにわの里と歩む会」という利用者さんのご家族が中心となって法人を応援してくださっている会があります。  先日、その歩む会から全スタッフ(パートの方も含む)に、「このコロナ禍の中、本当にご苦労様です」のメッセージとともに慰労金を頂きました。  役員の方(利用者さんのお母さんです)は、スタッフ一人一人に心を込めたメッセージをくださいました。そして、最後に「息子が書いたんです」と気持ちのこもった色紙をくださいました。  色紙を受けとったスタッフの「一番大変なのは利用者さんやそのご家族なのに、僕たちのことを気遣ってくださって本当にありがとうございます」という言葉もすごいメッセージだと思いながら、たくさんの元気を頂きました。  人手が足りない、お金が足りない、時間が足りない・・・というしんどい状況を変えていくのは、こういった「想いを伝え合う」ことによって生まれるエネルギーなんではないかと真面目に思っています。(小池)

ベテラン、かっこいいぜ👍

 先日、「発達障害連続基礎講座」の全3回撮影を終えました。一昨年度までは会場にお越し頂いて、発達障害のある方の支援についてなにわの里スタッフが、現場ならではの話を交えながら話すという会でした。コロナ禍になり、昨年度は中止、今年度なんとか実施したいという思いの中、YouTubeで期間限定配信というかたちをとることにしました。  3人の講師スタッフのうち、二人は18年勤務する小池の先輩、もう一人は十年近く頑張っている後輩です。えらそうな書き方になってしまうのですが、みんな、小池が知っている姿とまた変わっていて、「今はこんなふうに考えている」ということをかっこよく発表してくださいました🌸  ベテランが元気、というのは素晴らしい事だと思います。現場に立つ中で日々の経験を自分の考えに落とし込んで変化していく姿は、まわりのスタッフを大いに励ましてくれるものだ、と感じました。そんな素晴らしい仲間がいることに、改めて感謝の気持ちです🌹

「今ここ」にいる自分と、目の前にいるあなた🌼

 子どもの頃はそうでもなかったかなぁと思うのですが、特に体をこわしてから「同時並行で何かをすること」がとても苦手になって、例えば調子が良くない時は両手に何かをもっているだけでも胸が苦しくなってしまい、片方のものを離す(壊れそうにないものであれば、もう下に捨てちゃう(笑))ということもあります。  8年くらい前、ある大学の先生に「小池さんもそれ(発達障害)っぽいところがあるわけだから」と言われたことがありました。その時まであまり考えたことがなかったので、そうなんかと思う気持ちとどこか複雑…な気持ちがありました。  「いや、自分は普段発達障害のある方々の支援をしているのだから複雑な気持ちなど持ってはならん」という気持ちもあり、そう考えること自体変なんじゃないかという気持ちもあり、そもそもオレどうなんやろ、となんだかモヤモヤした心持ちでした。  結局自分が発達障害なのかどうか、といったことは診断も受けていないのではっきりわかりません。でも、今の自分にとって、その『名前』をつけることに意味があるのだろうか、とも思います。  例えば手帳を申請するときとか、会社に休職を願い出るとき、そんなケースであれば、やはり診断名というのは必要になると思います。また、子どもの頃から悩んでいた症状や状態に関して、診断名をつけてもらうことで「そうだったんだ」とどこか気持ちが楽になるなこともあるのかな、と思います。  また発達障害の方々との関わりについて講演する、とか「不特定多数の誰か」を対象にやりとりするときも、なんらかのくくり方が必要になるかと思います。  そういった場面ではなく、「今ここ」にいる自分や目の前にいるあなたとの付き合い方を考える時に必要なのは、  「その人はどんな環境で落ち着けるのか」  「その人が自信をもって取り組めるものは何か」 といったことではないか、と思うのです。  「その人が”その人自身”を乗りこなすうえで、どんな配慮があればいいのか」を丁寧に考えていく、ということが大切なのだろう、と思います。  支援現場にいたころは、どこか”専門家然”としてしまって(そんな知識もなかったのですが)、その人に『名前』をつけて(ラベルをはって)、そんな風にラベルを貼られている目の前の人の気持ちを考えることができませんでした。  体を壊してラベルを貼られる側になって気づいた、ということなのだと思います。そんな風に扱われる(と思う)だけで、気が滅入ってしまうことがあります。自分がそうなのだから、利用者さんにも同じことが起こっているんだろうな、と感じます。  施設、集団生活という特殊な環境だからこそ、「一人の人」として接することがより大切になってくるのだろう、と思っています。(小池)