いるだけでいい、と思えることの大切さ

 前回のブログで他法人様の実践報告会のことを書かせて頂きました。その報告会の場では、相模原の事件のことについても触れておられました。  この事件については思い出すのもつらい方もおられると思います。もう忘れたいと思っておられる方もいるかと思います。そう思って苦しんでいる方は、ゆっくり心を休めて考えないようにする、とにかく自分を守ることが大事だと小池は思います。  上のような考えと、「この事件を風化させてはいけない」という考えの間で悩む方もおられるのではないでしょうか。「自分が何か発信することで(別にネット上の発信だけでなく、同僚や友人とこの事件について話すことも含めて)、相手を傷つけてしまうのではないか」と感じている方もおられるのではないかと思います。  小池自身もそう悩んでいます。ですが、そのまま何も言わないでだんだんと忘れ去られていくとすれば、それは避けなければならないと思っています。仮にその場はお互いを傷つけてしまうことがあったとしても、語り合った方がいい場面もあるのではないか、と思っています。  植松被告は、知的障害のある方を「役に立たない」としました。彼は“役に立つ人間”になりたかったのではないか、と論じた方がおられました。そうなりたかったが、そう社会から認められず、自身でもそのように思えない中で、「これをすれば自分は“役に立つ側”にいけるのではないか」と考えたのではないだろうか、と書かれていました。  小池自身、最近まで自分の事を「役に立たない」「社会にとって邪魔な人間なのかもしれない」と感じたことはありませんでした。ですが、最近少し自信を失う出来事がある中で、そのように自分の事を思ってしまうことがありました。「いや自分は自分だし、生きているだけでいいんだ」というかたちで自信を回復できたらよかったのですが、目に見えるステータスであったり、周りに認めてほしいという気持ちに囚われてしまうことがありました。  刺々しい気持ちで過ごす時期があったのですが、職場の仲間、大学時代の友人、両親、恩師、そして何より家族の支えの中で「自分は自分なのだ」という自信を取り戻すことができました。  私には子どもが二人いるのですが、子どもが「何ができる/できない、ではなくて、いるだけで素晴らしいことなんだ」と思える土台を作ってあげることが親の一番の仕事なのではないか、と最近思います。偉そうなことを書いて、まだまだ実行はできていないのですが・・・。  自分自身に「いるだけでいいんだ」と思えることで、周りの人に対しても「いるだけでいいんだよ」という寛容さを持てるのではないかと思います。とても難しいことですし、自分自身もできていませんが、そうすることで社会全体の寛容さが深まっていくのではないかと思います。(小池)

他法人様の事例発表会で思ったこと

 2月21日のなにわの里事例発表会は新型コロナウィルスの影響で中止とさせていただきました。本来その感想をこのFacebook上で発信しようと思っていたのですが、それが叶わないため、感染症の影響が出る前に小池が参加させていただいた他法人様の実践報告会で感じたことを書かせていただこうと思います。  その実践報告会は、前半2時間が基調講演、お昼休みをはさんで後半2時間が実践報告という構成でした。なぜ前半の2時間で講演があるのだろう?と少し不思議に思っていたのですが、基調講演で「その法人様が大切にしている理念や価値」について、障害者福祉の制度や考え方の変遷を押さえながら発信していく、ということをされていました。その話には相模原の事件のことも含まれていました(このことについては次回で触れさせていただこうと思います)。    そしてそれを踏まえたうえで、各現場の実践報告がされていました。すごいなと思いました。実践報告や事例発表はどうしてもテクニカルな話に陥りがちだと感じています(10年前の誰かがそうだったように😩)。「どんな考え方や哲学に基づいてその支援がなされたか」というバックグラウンドを法人スタッフだけでなく聴く側も共有することで、上っ面でない分厚い話がその会場で生まれていました。  なによりすごいと思ったのは、実践報告をした現場スタッフの方お一人お一人が、「その支援をして、自分の考えがどう変わったか」「何を考えたか」ということを発表していたことでした。現場を離れて感じるのは、「支援スタッフにとって技術や知識よりも“哲学”が大切なのではないか」ということです。もちろん技術・知識も大切ですが、“自身で悩んで見つけた哲学”という根っこのない支援は、利用者さんのみならず、いつかスタッフ自身を苦しめることになるのではないか、と感じるのです。なんのためにこの支援をしているのか、自分はどこに向かおうとしているのか、それを見失うことにつながるのではないかと感じます。  そうならないために、その法人様は上記のような取り組みをしているのではないか、と思いました。その支援をしたことで自身が感じたこと/変わったことをまずチームで共有する、ということをされているそうです。それらをお互いに尊重しあいながら、この実践報告会の場で言葉にして外部の方に伝える、というプロセスを経ることで、現場スタッフお一人お一人の哲学が積み上げられていくのではないか、と感じました。  この実践報告会を開催するまで、ものすごい準備をされたのだろうなぁ・・・と感じました。どの法人様も、利用者さんに「その方らしい生活」を送っていただきたいと思い、様々な取り組みをされておられます。もちろんなにわの里もその一つです。ただ、なにわの里も含め今まで小池が見てきた取り組みは、どうしても目先の効果や数字に囚われてしまい、根っこのところに届いていないものが多かったように思います(すべてではありません)。どうしたらいいんだろうなぁ。。。と悩む中、今回素晴らしい取り組みに出会うことができました。それを実践していくのは並大抵のことではありませんが、今回学んだことを少しでも、なにわの里、また障碍者福祉の現場に還元していけたらと思っています。(小池)

支援と想像力と白黒テレビ

 小学校時代、男の先生に担任を持ってもらったのは2年生の1年だけで、ナカジマ先生という方でした。お顔ははっきりと思い出せない…のですが、教えて頂いたことを明確に一つ覚えています。  ちょっと表現に問題があるかもしれませんが、当時の原文ママで書かせて頂きますと、  “ ラジオはかまへん。 白黒テレビはちょっとあかん。 カラーテレビはあかんで! ”というものでした。    テレビに関して言われることと言えば「目が悪なるで」だけだったので、変わったことをいう人やなと思ったのですが、想像力のことを言ってるんやなというのは子どもながらにわかりました。  その後、小池はカラーテレビを見まくって育ったわけでありますが(白黒テレビはもうなかった・・・)、自分に子どもができて、ナカジマ先生の言葉を思い出すことがありました。 娘二人(小3・小1)は妻と妻の両親の影響からか、割と本を読む方なのですが、「これはこれでまあええことなんやろな」と感じながら見ています。学校の宿題などを一緒にしていて、小池が「これはこういうことなんやで」と教えると、「ほんまにそうなんかな、花蓮はこう思うんやけどな」と自分の意見を返してくることがあります。まあ、本を読む/読まないの影響がどこまであるかは分からないですし、親のひいき目もあるのですが(笑)、“その先にあるものを想像し、相手に伝えようとする”という力はとても大切なものだと感じます。  これは支援の場面でも言えるのではないか、と感じます。もっと言えば、人同士が関わる全ての場面で大切なことなのだと思いますが、 「あの利用者さんは今どう思うてはるんやろうか」 「この支援を継続して、その先にどんなことがあるんやろうか」 と肩の力を抜いて、腹に力を込めて考える力というのは、支援者として大きな助けになる、と感じます。(小池)

技に溺れるべからず

 2月21日(金)はオープンセミナー“事例発表会”であります。今、この原稿を書いているのは2月18日なのですが、今、発表者たちは気が気でない毎日を送っております(笑)。  小池も一度この場に立たせて頂いたことがありました(写真は当時の自分であります)。ちょうど今から10年ほど前のことで、28・29歳くらいだったと思います。現場の事も分かり始めてきて、「根拠のない自信」とでも言うのでしょうか、そんなものに溢れていた時期でもありました(お恥ずかしい・・・)。  発表を終え、「よっしゃ、どうだ!」くらいの気持ちでいました(お恥ずかしい・・・)。質疑応答の時間になったのですが特に手が挙がらず、ある支援者の方にご感想を伺う・・・ということになりました。その方が開口一番仰ったのは、「技に溺れているな・・・という印象でした」という言葉でした。  そのときは、その言葉の意味が十分に理解できていませんでした。いくつかの支援を盛り込んだ事例だったので、「もっとシンプルにやった方がいいよ」くらいのご指摘なのだろうか・・・と思っていたのですが、今になって考えるとその方は「そんなもん、お前のやりたいことやっただけやんけ」ということをマイルドに指摘してくださったのだな・・・と理解することができます。  当時の自分なりにその方の困りごとを捉え、その解決策を考えたつもりでした。が、その方やご家族のペースにあっていなかったのは、今考えると明らかで、ご本人・ご家族はもっとゆっくりしたペースを望んでおられたのではないか・・・と顔を覆いたくなるような恥ずかしい気持ちになります。  知的障害のある方々は変化が苦手・・・などと言っておきながら、一方でご家族が戸惑うようなペースの支援をしてしまったことを大変申し訳なく感じます。当時は気づけなかったこと、今は理解できること、そんなことを少しでも後進に伝えていけたら・・・と思っています。(小池)

母校での講義をさせて頂いて

 ここ5年ほど、母校である関西福祉科学大学で毎年一コマ講義をさせて頂いています。“福祉コミュニケーション論”という講義なのですが、“自閉症の方とコミュニケーションをとる上で配慮した方がいいこと”を、施設での実践を踏まえながらお話する・・・ということをさせて頂いています。  動画なども交えてお話をさせて頂くのですが、小池自身が考えた支援は一つもありません(笑)。これまでのなにわの里スタッフが考え、議論し、利用者さんが「これでいいんかな」と試行錯誤しながら覚えはった支援をお伝えしています。  講義の前にはご家族に「○○さんの支援について、お話をさせて頂きたいのですが、構いませんか?」と確認をさせて頂いています。ご家族から「お伝えすることで、少しでも皆さんのお役に立てるのなら・・・」という温かいお言葉を頂くのですが、そのお言葉を読むたびに「自分だけではない、スタッフ、利用者さん、ご家族、全員を代表して伝えしに行くのだ」と心が引き締まる思いです。  そして、なにわの里の実践だけではなく、小池自身がパニック障害を患って感じたこと・体験したことなどについてもお話をさせて頂いています。今回は、市役所で自立支援医療の申請をした際に、しんどい思いをしたことについてお話をさせて頂きました。なにわの里の利用者さんやご家族が感じてきた思いと比べれば、本当に些細でちっぽけなことなのですが、自身で体験しないとわからないものがある、という思いも込めてお伝えさせて頂きました。  この講義にはレポート提出がありまして、この時期に添削もさせて頂くことになっています。皆さん、講義の資料/書籍/インターネットでの情報などいろいろ調べて書いてくださるのですが、自身の体験なども含めて書いて下さる方もいます。つたない講義であっただろうにも関わらず、思いを込めて書いて下さることに本当に感謝です。  この先、続けさせて頂けるならできる限りで続けさせて頂きたい、伝え続けることで何かを感じ取ってくれる方が一人でも増えれば、こんなにうれしいことはありません。(小池)